「東京タワーと月とあの人と」(広尾の掌編小説3)
十二月上旬ともなれば、肌をなでる空気は凛としていた。首に巻いて
いた臙脂色のストールを整えて、七時前の空を見上げると深い紺色だっ
た。
その日の用事を終えてほっと息をもらすと、白くひろがって消えて
いった。
あの人の職場も近いので待ち合わせて帰ろうかと、連絡を入れたら、
十五分ほどであがれると返事が来た。今日はいつもより早めに仕事が終
わるのだろう。久しぶりに一緒に帰れると思うとにわかに心が浮き立っ
た。
どこかお店で時間をつぶそうと思い、広尾の街を歩いた。食事時とあっ
て建ち並ぶ店は、にぎやかな声とあたたかな照明の光があふれている。
〈船橋屋こよみ〉の角に差しかかると、数人が足を止めて何やらスマホ
のカメラを向けていた。
何だろうと振り向くと、落ちそうなほどの月が、朱色の東京タワーの左
側に出ていた。
「広尾月だわ」
ささやくように声がこぼれた。
十六夜の月が東京タワーに寄り添うように、輝いている。そういえば
今年最後の満月は昨日だったかしら。
年に数回しか、東京タワーのそばを通る月が見られないから、“広尾
月”と街の方は呼んでいるらしい。いつだかあの人が教えてくれたのを
思い出した。
あの人も早く来ないかしら、と急いでスマホをとり出す。
写真を撮って、『広尾月が見えるわ』とメッセージを送信した。既読
はすぐにはつかない。仕事が長引いているのかな、と少し残念に思いつ
つ、幸せ色をした月と東京タワーを眺めた。
私と同じように足を止めて広尾月を見ていた初老の女性が、すごいで
すねぇ、あたし広尾はじめて来たんですけど、こんなに素敵な街なんで
すね! と、興奮した様子で話しかけてきた。
傍にいたご婦人も写真に残そうとスマホをかまえながら、東京タワー
と大きな月なんて贅沢な景色ですね、と自然と話しに加わった。
この街の方は広尾月、と言っているみたいですよ、とあの人から聞い
た話をした。
二人の女性は感心して、「令和元年最後の広尾月ですかね」と笑って
いた。
そんな話しをしている間にも、月は東京タワーへと近づいていく。タ
ワーの後ろに差しかかった時に、スマホが震えた。
『仕事終わった!すぐ行く』と返事が来た。
そしてさらに一言『月が綺麗ですね。』と返ってきて、ドキリとし
た。
――あぁ、彼はこの表現に込められた意味を分かっていて、あえてこの
言葉を送ってきたのだろう。不意打ちで送ってくるは、なんとも、ずる
い。
思わず頬がゆるむのを抑えることもできずに、彼が来るのを待った。
月の中心と、東京タワーの中心が、ぴったりと重なった。人だかりは
一人二人と増え、感嘆するような声があちこちで上がっていた。
一緒に見たかったなぁもう来るはずなのだけど、と思っていたら、聞き
なれた声が降ってきた。
「お、ちょうど、ど真んなか」
隣を見ると、コートに身を包んだ彼がいつの間にか立っていた。目が
合って「お疲れさん」と笑う。
「間に合ったのね!」
と自分でも驚くほど嬉しさが声に乗ってしまって、すこし恥ずかしくなった。
「もちろん」と答えた彼がそのあと小声で「一緒に見たくて急いだ」と
言ったのを、ちゃんと聞き逃さなかった。私はたまらず「ふふっ」と笑
みをこぼした。
直接は『月が綺麗ですね。』を言えない彼が、ぎこちなく私の手をに
ぎった。
完
作 天風凜(あまかぜ・りん)