「雨とプリンとあの人と」(広尾の掌編小説1)
見上げた空は相変わらず雲であふれていた。
このところ、青空と太陽はシャイなのか、なかなか顔を見せてはくれない。
灯ったばかりの東京タワーが、薄い雲にかかって淡く広尾の街を見下ろしていた。
雨模様でさえ画になる街を、私は広尾のほかには知らない。
紺色に白い花柄の傘を片手に、通りを歩いた。
雨が弱いからか、街行く人の足どりはどこか雨さえも愉しんでいるかのようだっ
た。街の雰囲気がそうさせているのかもしれない。
まだ日は暮れていなかったが、街路灯や店の照明がつきはじめた。
雨粒が光を反射してきらきらしていた。
カバンのなかで通知音が鳴った。
「帰り、すこし遅くなる。ごめんな、なるべく早く帰るよ」
スマートフォンに届くメッセージはいつもと同じだった。
あの人は今日も忙しいらしい。まったく、今日が何の日か、忘れちゃったのかし
ら。
大事な人の誕生日くらい、帰りも一緒が良いわ、なんて思いついて職場近くまで
来たのに。やっぱり帰りは遅くなってしまうのね。
驚かせようと思って、広尾まで来ていることは連絡していなかったのが悔やまれた。
ちょっぴり腹立たしくも寂しくもあったが、仕事だもの、仕方がないわ、と自分に
言い聞かせた。
どちらにせよ、あの人のために用意したいものが、広尾じゃないと手に入らない。
商店街を目的の店まで歩いていく。
目当ての看板を見つけ、足を止めた。
パティスリーMERCIだ。
ここの「広尾プリン」を一本買いたかった。
プリン好きのあの人が、わたしの誕生日プレゼントとして贈ってくれたものだっ
た。
プリンには夢がつまっている、というわたしの言葉を覚えていて、とびっきり
のプリンを用意してくれたのだった。
すこし硬めではあるけれど口どけなめらかで、甘ったるさはなく、たまごの優しい
甘さがまったりとしていて美味だった。
それは幸せの味だった。
今度はわたしがその幸せの味を贈りたくて店を訪れた。
喜んでくれる顔がはやく見たい、と口元が緩んでしまいながら、プリンを選んだ。
どんなふうに喜ぶだろう、と想像してみる。あの人は美味しいものを食べるとき
に、少年のようにくしゃっと笑う。
瞳を生き生きとさせて、見ているこちらの心まで満たされた。
店から出て駅へと歩きながら、もう帰ろうかどうしようか考えた。
外は暗くなっていた。雨はだいぶ弱くなってきていた。
せっかくここまで来たのだから、すこし遅くなってもあの人を待とうかしら。
どこかのお店で待つことにしようか、と思っていると、見慣れた姿が花屋から出て
きた。
「あれ、仕事、もう終わったの?」
愛しい人にかけよって笑った。
わたしがいるとは考えもしなかったようで、迎えに来てくれたのかい? と目をみ
はって彼は言う。
「なんだ、僕も早く帰って驚かそうと思ったのに」
と苦笑いして彼が花束を差しだした。
「誕生日って、祝われる日でもあるけど、自分が感謝を伝える日でもあると思うか
らさ」
照れくさそうな表情を浮かべながら話す彼の目は真っ直ぐだった。
雨はいつのまにか上がっていた。
傘を閉じて、空いた手は彼の手と絡んだ。
完
作 天風凜(あまかぜ・りん)