広尾と文学
みなさま、こんにちは!
「広尾商店街の日記」メンバー、もももももです。
今日は「広尾と文学」というテーマで書いてみます。
先日、お世話になった方から「もももももさんが好きそうだから・・・」と、こんな本をプレゼントいただきました。
須賀敦子『遠い朝の本たち』ちくま文庫
私はエッセイ、特に向田邦子など女性が書かれたエッセイが好きでして、この本も喜々として読み進めました。
須賀敦子さんも向田邦子さんと同世代。多感な少女時代に終戦を迎えられており、苦しい生活の中でも数々の本に世界の広がりを見出していたというお話が、このエッセイ集の中心です。
この須賀敦子さん、実は広尾にとてもご縁が深い方です。
1.聖心女子大学OG
須賀敦子さんは、戦後新制大学となった聖心女子大学の第一期生です。同じ第一期生には中村貞子(緒方貞子)さんもいらっしゃるとのこと、聖心女子大学、すごい・・・。
『遠い朝の本たち』内のエッセイ「星と地球のあいだで」では、初級フランス語の授業で「マドモアゼル・V」という女性の講師が、当時まだ日本語訳がなかった『ル・プティ・プランス(星の王子さま)』をテキストにして読み進めていた、という記載があります。
しかし、今では有名な「星の王子さま」ですが、当時は日本語訳がないどころか、フランス語のその本自体を手に入れることができないので、フランス語の初級文法もまだ満足にマスターできていないなか、この女性講師「マドモアゼル・V」がゆっくり朗読するフランス語を聞く、という授業だったようです。「ほとんど彼女が読んでいることの内容がわからない」「こうしてただ読まれると、おおむねはお手あげである」と、須賀さんが非常に苦労されたと思われる記載が続き、エッセイを読んでいる読者も一緒に眠くなってしまいそうなシンクロを覚えます。
2.麻布住まい
お生まれは兵庫県芦屋市で小林聖心女子学院、その後お父様の転勤で1938年に「麻布本村町に住むようになった」とあり、聖心女子学院に編入されています。
この「麻布本村町」が今のどこにあたるかネットで検索すると、港区南麻布一~四丁目や元麻布一・二丁目のあたりのようです。「広尾散歩通り」の反対側ですね。
「父の転勤で私たちが麻布本村町に住むようになったのは私が九歳のとき、1938年のことだった。どうして麻布にしようって考えたの、芝でも目黒でもなくて。父にたずねたことがある。おまえたちの学校にも近いし、会社からも便利だ。それに、外国の大使館があちこちにあって、緑が多いのがいいと思った。父は自信ありげだったが、なるほど、二階の西の部屋と私たちが呼んでいた風呂場の上の洋間からの眺めは、四季を通じて緑に彩られた。とくに、若葉のころになると、光林寺の雑木林だけでなく、フランス大使館のある富士見町一帯が、さまざまな色合いの緑に煙って、私たちをうならせた。」
(引用 須賀敦子『遠い朝の本たち』内「ひらひらと七月の蝶」ちくま文庫 p131-132)
また、当時住んでいた家は「俳人原石鼎の隣家だった」ともこのエッセイのなかで記述があり、少女時代の須賀さんが、庭にひとりぽつんとたっている原石鼎の姿を見ている様子が読者の目の前に浮かぶように描かれています。
「外国の大使館があちこちにあって、緑が多い」というお父様のお言葉は、70年以上たった今の麻布・広尾エリアにも当てはまりますね。
この『遠い朝の本たち』内のエッセイには、ところどころに当時の麻布・広尾エリアの地名とともに生き生きとした描写が書かれています。非常に有名な本ですので読まれた方も多いと思いますが、ぜひ「広尾と文学」という側面から、秋の夜長に読んでみてはいかがでしょうか。